ぶな記

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他人の感情に「あてられる」ことがある 1【実録記事に弱い】

いつぞやか、自分が中程度のHSPであるという話を少しだけ書いたかと思う。


自分もそうだと思っている人はこのまま読み進めてくれれば良いし、
HSPをよく知らず、かつ興味があったり、その可能性があったりする人は是非検索をかけてみて欲しい。

(この方のブログがThe・HSPといった話を取り上げてくださることが多いです)
hanamaru-life.hatenablog.com


HSPに限らないかもしれない。自分の家系は自律神経失調症だらけなので、そのせいなのかもしれない。
ただ、ふとした瞬間に他人の感情にあてられて、めまいがするほど気持ち悪くなる。
今日はその話。長くなりそうなので区切ります。

あてられる

他人の感情に影響される、とかそう言った言葉では少し足りない。
他人の感情に振り回される、と言ったようなものではない。


何年も考えた結果、しっくりきたのは「あてられる」という単語だった。


コトバンクから意味を引っ張ってくると、1の意味でこうである。

毒などのためにからだに害を受ける。「暑さに―◦られる」


怒っている人がいる空間。
辛い話のドキュメンタリー。
苦しみの人生を描いたブログや実録漫画。
泣いている子供がいる時。
そしてそれに対しての電車の言いようもない暗い雰囲気。


特に人生で顕著だったのは、各種受験における模試の問題が難しかったときのあのお通夜のような教室の淀んだ空気。



100%その雰囲気にあてられるとは言わない。
20余年生きてきて、あてられやすい時とそうでない時の違いくらいは大体気づいてきた。

だがこれら以外にもあるであろう他人の感情に、自分はよくあてられるのだ。

実録記事に当てられる

個人の大きな感情にぶつかった時、例えばブログや実録漫画、ドキュメンタリーが当たる。


「どうしてこの人はそう思うのだろう」「その雰囲気を出したのだろう」と考えるフェーズに入る。
元々他人がどう物事を考えるのかに興味があるからこそ、相手の感情の迎合から入ることが多い。


ブログなどでは、個人の思考の経路が示されていることが多々ある。
こういう出来事があって、それに対してこう考えて、
そうして、今のその人がある。


流れを理解できる。
その人の辛さや人生を知り、自分とは異なったり、あるいは似ている人がいると感じたりするきっかけになる。
これはやがてSNSで拡散され、大きな波紋を呼ぶかもしれない。

そうした意味で、個人の経験・思考をあらわにできるこれらのツールはとても良いものだと個人的には思っている。


そしてブログなどのある意味でよくないところは、「その人が表現したいもののみが抽出されている」ところである。
抽出されて綺麗に整えられた文章やイラスト、映像には大きな出来事だけが残る。


例えば過去に100万円を盗まれてしまったという話をしたとする。
頑張って稼いで、やっとの思いで貯めた100万円を、小学生の頃から信頼していた親友に裏切られ、盗まれてしまった。


この話を経験者の話を聞いて実録したとしても、最初から最後まで全てを追体験できるわけではない。
本人ですら覚えていない、美味しかった朝食で少し心が救われたり、
たまたまよく眠れた日が、その人の心を多少なりとも元気にしたかもしれない。


そうした「表現に余り必要とされない」部分は切り取られることがほとんどだ。
当人にも、そして他人に伝える時にもインパクトのある話を選ぶだろう。


だが、「実録」という名を冠しているだけで、受け取り手たる自分はそれが全ての経験だとでもいうように追体験をする。


結果、抱えきれない感情を自分の中に吸収することになる。
まるで信頼できる人間の悩みを聞いた後のような、えも言われぬ渦巻いた気持ちだけが自分の中に残る。

みなければ良いのでは

それなら見ない方が、触れない方がいいという主張もわかる。
辛いものを食べるのが苦手なのに辛いものを食べに行くようなものだからだ。


だが、食べ物とは少し違った事情が2つある。


まず大前提として「必ずしもあてられるわけではない」ということだ。
読んでいるときの自分の心持ちや、それを表現する人の表し方のうまさ(もしくは自分が追体験するための相性の良さとも言い換えられる)にかなり依存する。


次に、その実録記事が将来自分や、親しい人に役に立つかもしれないという若干の浅ましさだ。

浅ましさというべきか、他人の役に立とうという奢りか。
他人の人生さえ踏み台にしようとする傲慢さか。

どう言っていいかわからないが、そういう類の視線で見ざるをえない気持ちにさせられる。


「この人の記事を読めば、将来自分が同じ事態に陥った時に自分を救ってくれるかもしれない」
「自分は理解できないが、同じようなことを考える友人がいるかもしれない。知っておくのは悪くない」


そう思い、自分があてられたときのデメリットさえ忘れて記事に触れていることがほとんどだ。



読まないという選択は、してもいいのだが、それはそれで後味が悪い。


しかし折角誰かが何かを表現しようとしたものを、自分の不調や具合の悪さの要因にはしたくない。
それなら自分が見なければよかっただけの話に違いないからだ。


そこで最近は一度に全部読まない勇気を持って触れるようにしている。

あてられそうな気配


映像や文字を見進めていくと、どんどん自分の体がどこかに行ってしまう感覚がある。

小説を読んでいる時に主人公の視点で物語を見ることがあるだろうか。
3人称で書かれている話ですら、一人称のように物語を展開したことがあるだろうか。


これは自分が酷く疲れていたり、現実から逃げたくなるような事実がある時によく起こりやすいかもしれない。特に新学期が始まる直前やテスト前日、レポートの締め切り日などでトリップしていた記憶がある。これは実録記事に限らずアニメや漫画でもだが。


本来なら読んでいる自分は、話とは無関係であるから、完全無欠な第3者である。
そしてあてられない時というのは往々にして第3者視点を貫いている。


時間を忘れるほど話にのめり込み、視界がだんだん狭くなっていく。
ふ、と画面や文字から目を離した時に脱力感が訪れる。


こうした一人称で読んでいたな、という自覚がある時はあてられる気配を感じたと思い、記事を見るのを止める。
そしてどこか鉛筆で書けそうなところに感想とかを吐き散らし(自分の中に貯めないように)、気になる記事であればブックマークやお気に入り登録して後日見ることにする。


折角集中していたのに、と思うかもしれないが、現実を話題にした実録記事で、自分があてられやすいものというのはしばしば救いのないものがほとんどだ。
必ず勝利したり、ハッピーエンドになりがちな週刊少年ジャンプ(最近はそうでもなさそうだが)の世界とは一線を画す。

人の話を聞けないのは優しくない?

大学二年生の時、自分が他人の感情にあてられる人間だということを自覚した。

そして、その時お誂え向きに心理学の講義を受講していた。


心理学の教授に匿名で質問を送ってみた。


「他人の話(記事)を聞くと、ごくまれに自分も影響を受けることがあります。でも、その話に触れないことで自分が影響を受けないようにするのに抵抗があります。どうしたら良いでしょうか。」


こういった旨の質問だったと思う。
それに対して、


「他人より自分を優先させることに問題はありません。むしろ自分のことをコントロールできているという点で評価できるでしょう。共感疲労という言葉があり、カウンセラーの人でさえ定期的にこの疲労をコントロールしています。自分が疲れない生き方を選択してください。」



あくまで一つの答えだと思って、読んで欲しい。
これを「優しい」と言い切れるか否かは、個人の判断だろう。


だが自分はこの答えに少なからず救われた。自分を大切にして良いのだと。それは他人を犠牲にする行為ではないと。
そう認められたようで、自分は少し生きやすくなった。



もし自分と同じように他人の感情にあてられる、特に実録記事や他人の悩みに触れることが多い人へ。
あなたがそれを理由に疲労していないことを祈ります。
SNSや顔も知らない相手の実録記事に悩まされ、本当に大事にしたい身近な人の話を聞けなくなるなんてことがないように。




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