題の通り、他人の感情にあてられることがあるという話。
「あてられる」の意味は前回も出した通り、以下。
毒などのためにからだに害を受ける。「暑さに―◦られる」
上記事ではブログやドキュメンタリー、漫画などの実録記事にあてられる話をしたが、今回は雰囲気にあてられる話を少しだけしたい。
雰囲気にあてられる
あてられるという言葉にこだわりを持ってこの表現をしたが、雰囲気に関しては「酔った」という言い方をしてもいいかもしれない。
よく自分があてられる雰囲気は
- 大きな駅など多数の人が集まる場所
- 電車で子供が泣いていたり何か不思議な人がいたりする時
- 不特定多数で受けるテストが終わったとき
の三つである。
大きな駅
これは今でも少し苦手である。誰かと行動しているときであればあまり気にならないのだが、一人で行動するときは少しつらい。
しかし苦手な駅とそうでない駅がある。
例えば東京駅だとしても、JR京葉線からの乗り換えのような、大多数の人が同じ方向へ流れていく場合は全くつらくない。
これは思うに、周囲を気にする必要がないくらい統率された動きであるため、多くの人が背景と化しているからだろう。
逆につらいと思うのは視界に入る全ての人を気にしないといけない時だ。
乗り換え口が複数ある駅や、入り組んだ駅、見通しの悪い柱や壁がたくさん配置されている駅なんかはどんなに通っても慣れない。
自分の背後の人の進路を妨害しないように。
正面から来る人を避けるように。
柱の後ろから歩いてくる人にぶつからないように。
逆に自分が柱から急に飛び出る人にならないように。
走って電車に間に合おうとする人に道を譲るように。
自分はたくさんの情報を一気に処理するのが苦手なので、多くの人が一斉に異なる方向に進む時、どうしていいかわからなくなる。
それは普通に道を歩いていてもそうなのだが、特に駅構内ではそれが顕著になってしまう。
人間はたくさん歩いてくる人をうまくよけていて本当にすごいと思う。心から尊敬する。
避けられないほど人が来てしまった時や頭の処理が追いつかなくなった時、自分は場所を見つけて立ち止まっている。
電車通学を始めた高校の時から、立ち止まって機をうかがうのは至って普通のことだと思っていたのだが、
他人と待ち合わせの場所に赴く際、何度も立ち止まる自分の姿を見て不思議だったと言われて以来、立ち止まらずとも生きていける人間がいるということに驚いたものだった。
機を伺い、人の流れが落ち着いたり、揃ったりしたタイミングで自分の行きたい方向に行く。
だがそれでも誰かの進路の邪魔になり、「どうしてこんなに自分は駅を歩くのが下手なんだ......」となることもある。
そんな自分にとって一本しか方向がないエスカレーターや一方通行の改札はかなり心の癒しになる。
何も気にしなくて良いからだ。
日本はもう少し一方通行の改札を増やしてもいいと思う。
だがまぁ、誰かと駅を歩くのは全く苦にならない。特に勝手がわかっている人間だと尚良い。
「ついて行っているだけ」と言われればそれまでだが、相手についていくことで避ける時も相手に合わせれば良いし、2人以上であることで人間の塊になる。大きな塊になることで避けやすさが上がる。
この「ついて行っているだけ」が自分の駅を歩くハードルを格段に下げるのだ。
これを見ているぶなの友人各位、ぶなと遊ぶ時「こいつ後ろしかあるかねぇな......」ってなったらぶなは自分が一人で歩く自信を失っています。先導して欲しい時は言ってください、おそらく気づかないうちに自分は後ろを歩くことに専念しています。
電車で泣いている子供がいたり不思議な人がいたりする時
これは泣いている人に対して、というより周囲の人がなんともいえない雰囲気してると流されることが多いかもしれない。
特に昼すぎの田舎電車に乗っているときの不思議な人が電車で騒いでいる時とかかな。
これに関してはただ車内の雰囲気に流されるだけでそれほどつらい経験が思い出せないので、駅の中で右往左往するより全然心的には軽い。
最近はコロナもあって、電車内の位置取りがすごい難しいなと思っている。
全く関係ないが、ぶなは高校生の時電車の中で急に背中から大きな声で
「メロン!!!!!」
と叫ばれたことがある。
一体なんだったんだろう。結構怖かったが。
不特定多数で受けるテストが終わったとき
個人的には結構面白いと思っている。
何かというと、例えばめちゃくちゃ難しい模試が終わった後、テストを回収しているときの雰囲気のお通夜度でテストの難易度がなんとなくわかるのだ。
自分がすごくいい感じだったとしても、教室の空気が淀んでいれば、「あぁ、今回の模試は難しかったんだなぁ」とわかる。
一番面白かったのは、2017年入学の東工大の数学(折り紙の出た年)を現地で受けたとき。
非常に難しかった年なのだが、今でも思い出せるくらい教室の雰囲気が重かった。
換気されていたにもかかわらず、豆電球で照らされてでもいたのか?と疑いたくなるほど暗い教室。
自分も当時全く手がつかず、絶望的だったのだが、教室の空気の重さに
「こりゃ難しかったな!気にしなくて良さそうだ」
とポジティブに捉えたものだった。みんなできてないなら自分もそんな悲観する必要もない、という意味で。
(実際のところ50/300だったのでみんなのできていなさより自分のできていなさの方が遥かに上回っていたのだが。)
大学の講義のテストでも、終わった瞬間の鉛筆を置く音や教室の空気で相対的に良い点が取れそう、という予感は大体当たる。
大体当たるのでいかにもみんなができた雰囲気の時には課題を少し多めにやったりする。
最近はオンラインでのテストなので、それが通用せず少しだけ困った。
しょうがないのでTwitterで講義名をひたすら検索し、期末課題を発展まで行うかどうか決めるなどしていた。
あてられやすい時
人によりけりなのは重々承知の上で、自分があてられやすいな、と思ったタイミングを残しておく。
将来こんなのも思い出せなくなるくらい忙しい日がくるかもしれないので。
一人でいる時
一人でいる時間は大切で、定期的に用意する必要がある。だが一人でいる時ほど物事を深く考えるのにうってつけな時はない。
そんな時に前記事のような実録の話を見ると、深く深く考え込んでしまう。
じっくり考えることができるという点では良いが、気分が落ちているタイミングでは控えた方が良さそうだ。
締め切りが近い時
どうしても現実から離れたいという時もあまりよろしくない。
実録話はいうまでもなく、誰かの人生の追体験をできる。かなり質の良い現実逃避になりかねない。
気分転換に散歩をするとしても人がいないところの方が良い。
かなり広めの公園などは誰かとぶつかる心配もせず良い。
課題、期日が迫っているときの自己肯定感は底辺に近い。
そんな時にエキナカを歩き回って「どうしてこんなに人を避けるのが下手なのだろうか......」と罪悪感に苛まれる必要はない。
リラックスしている時
これはつい最近自分でも驚いたのだが、リラックスしている時に案外そう言った他人の感情はヌルッと入り込んでくる。
一人でいるとか、誰かといるとか関係なくである。
たまたまついていたTVが重めのドキュメンタリーだった時、完全にリラックスしていたにもかかわらず大きくあたってしまった。
コーヒー飲みながらTwitterの炎上リプライを眺めたりするのも割と自分に毒だと気づいた。
生きている時、無意識に気張っている際にはあたらないということもあるのだろう。
気が緩んでいるということは、無防備であるとも同義である。
リラックスしている時間を楽しみたいのであれば、あたりかねないものを避けるのが無難なのだろう。
共感ライフ
この間読んだPixivの実録漫画にぶちのめされるようにあたったのでこの話を書きました。
大学に入る直前くらいまで自分が「あてられている」ということに自覚がなかったので、そういう人もいるかもしれないと思って書いてみた。
そして気付き始めた時「ドキュメンタリー つらい」「実録漫画 読む つらい」とかで検索しては唸っていたので、誰かが唸る前に「やっぱりこういうこともあるんだ〜」と見つかっていれば良いなぁ。
将来自分がこの記事を忘れて検索をかけてひっかけたら一番面白いんだけど。
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