ぶな記

主に食べ物、みじんこ程度にプラグラミング

ぶな記

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好きなものを、それが苦手な人に勧めるのは難しい

好きなものを他人に勧めるのはすごく難しい。食べ物なら尚更だ。


自分が好きな食べ物を他人にも食べてもらいたいと言うのは、ある意味当然の心理だと思う。

共感を得たいの気持ちが本能だからこそTwitterも、Instagramも流行するのだろう。共感を広く意思の伝達と捉えるなら、言語能力だって発達しなかったかもしれない。


自分が良いと思ったもの、できることなら自分の親しい人に食べてもらいたい。だが、それを相手にどう勧めるか。それが昨今とても難しいと思う。


コーヒーが苦手な人へ

一つ例を出そう。
自分はコーヒーが好きだ。飲むのも、匂いを嗅ぐのも。


だが、ブラックで。となると忌避する人も出てくる。

コーヒーには多くの種類があり、酸味が強いやつや甘味が強いやつ。カフェイン全開のものだってある。


コーヒーが苦手だと言った人の心理は「苦手」と言う単語からは推し量れない


人生で最初に飲んだコーヒーがくそまずだったのかもしれない。

アレルギーを持っているため、体質的に飲むことができないのかもしれない。

コーヒーに強いトラウマがあるかもしれない。

苦いものが嫌いだからコーヒーも苦くて嫌いなのかもしれない。


だが、それが好きな人からしたら知ったこっちゃない。

嫌いな人でも飲めるコーヒーを探したり、多くのフレーバーを試してもらったりする。


「これなら飲めると思うよ」


そう言って勧めてしまうのだ。

感想が欲しい

つい最近、自分がこう言ってしまったことの反省も兼ねてなのだが、どうして苦手だと言う人にわざわざ勧めてしまうのだろうか。


自分に限っての話だが、別に「おいしい」と言ってもらいたくて勧めるわけではない。どちらかと言うと、食べてみて感想が欲しいだけなのだ。

「苦い」「やっぱりダメだった」「不味い」

こう言ったネガティブな感想でも、自分と他者の違いが実感できる。自分と違う受け取り方をする相手を面白いと思ってしまう。これはいつか書こうと思っているが、HSS寄りのHSP気質だからかもしれない。

そりゃぁ、多少残念がることもあるが、試してみてくれたことで「同じ体験」をしてくれたことがそもそも嬉しいのである。

茶碗蒸し


だが、苦手なものを食べさせられると言うのはやはり辛いものだ。

唐突だが、自分は茶碗蒸しが大の嫌いだ。


そもそも、中華料理と比較すると薄めの日本の料理は自分に合わないことが多い。豆腐や湯葉など、味が薄めのものは少々苦手だ。


そんな中でも茶碗蒸しだけは群を抜いて嫌いなのだ。


元々薄味で苦手だと思っていたそれは、中学生の時の祖父の一周忌の食事会で猛威を奮ってきた。


和風の食事会だったため、料理の一部に茶碗蒸しが出てきたのだ。親戚のいる手前、自分のプライドからも食べ物を残すわけには行かなかった。

そしてデザートには自分の大好物のマンゴープリン。


茶碗蒸しを食べ切れればマンゴープリンが食べられる。そう、食べられるのだと意気込んで苦手だった茶碗蒸しを飲み物を駆使して飲み込んだ。


お腹がいっぱいだったこともあり、かなり苦しい思いをしたのを覚えている。今より10年も前の話だと言うのに。


そして最後に残ったマンゴープリンを食べたものの、苦心して食べた茶碗蒸しの余韻が口の中に残っており、大好物にも関わらず美味しく食べることができなかったのだ。


満腹だったのだろうか、茶碗蒸しを食べきった緊張からの開放だったのだろうか。今となってはわからないが、当時の自分には「茶碗蒸しを食べたことで大好物が美味しく食べられなかった」とインプットされた。

そして、恥ずかしながら今もそれは若干のトラウマとして続いているのだ。

脱・食わず嫌い

茶碗蒸しが苦手だと言い張って10年が経つ。プリンの記事を上げているよう、茶碗蒸しと似ているとよく言われる(本当によく言われる)プリンは難なく食べることができる。


食わず嫌いでないことを証明するためにと、2年に一回くらい茶碗蒸しチャレンジはしている。年齢が変わると食べ物の好みも変わると言う。本当においしいものを食べれば好きになるかもしれないと良さそうな定食屋で茶碗蒸しを食べたこともある。


だがそれでも茶碗蒸しは苦手なままだった。


根本的に自分の好みと味が合わないのだろう。親に「食わず嫌いだけはするな」と幼少期から言われてたのもあるが、チャレンジ全てが無駄だったとは思わない。


食べると一瞬訪れる卵の甘味や、崩れると香る匂いを少しながら楽しむことを理解してはいる。理解しても、苦手なものは苦手なのだ。

こういった経験を苦手だからと敬遠しなくて済むのも「食わず嫌い」をするなと教わったおかげだと身に染みて思う。また機会があったら茶碗蒸しチャレンジをしようと言う気持ちはいまだ消えていないのだから。

でも勧めるのは違う


でも、「こっちの茶碗蒸しはおすすめだから!」とか、「これなら食べられるはずだよ!」と無邪気に勧められるのは厳しいものがある。


親しい人が勧めてくれるものを食べるのは嬉しいことだ。嬉しいにも辛いをかき消せる限度があるはずで、あまりにも勧められると辟易し、より茶碗蒸しを嫌いになる可能性が高まる。これでは誰も幸せになれない。

勧める方からしたら本末転倒だろう。




......こう考えると、自分が好きなものを、それが苦手な人に勧めることは、大変難しいことなように感じてしまう。


良くも悪くも押し付けであり、自己満足の域を出ない。
そんなことをコーヒーが苦手な人にコーヒーを勧めた時に気づいた。


不特定多数のブログやSNSでは無条件に勧めるものも、1対1で人に勧める際には自己満足であることを留意した上で言葉を選びたいと、そう心に刻んだ。



でもそのうち忘れてまた押し売りをしそうだ。


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